(司会者)
ただ今より第二部を開会いたします。
それでは安倍先生よろしくお願いいたします。

(安倍)
第二部ということで皆さんからのご意見ご質問をドシドシお寄せ頂きたいと思うのですが、お二方第一部で言い残したなぁということが何かあれば・・・

(白井)
色々関連があることが出てきて面白かったんですが。「モンパリ」を聞かせて頂いて、前回の復習ですね、小津安二郎監督というのは宝塚が非常に好きで、小津安二郎映画に出てくる小津調の音楽というのは「サセパリ」と「バレンシア」が元になっているという話でね。
さて、白井鐵造さんが李香蘭さんの日劇の公演をなさった。僕の対談集「銀幕の大スタアたちの微笑」(日之出出版)の2番目に出てくるスターの池部良さんなんですが、彼は学生時代に日劇の李香蘭公演を見に行っているんですよ。
戦争中なのに学生を中心とするファンが日劇を取り巻いて、国家非常事態のときになんたる不祥事か、というんで警察が、消防車を持ってきて放水して列をけちらしたという。
その時、池部さんはけちらされた学生の中の一人だったという。後年満州のスターだった李香蘭っていう人は戦後日本人だったということを実証して日本に帰ってきて、山口淑子という名の女優さんにあらためてなると。そして池部さんは「暁の脱走」という映画で共演しているんですね。いろんな縁があって非常におもしろいですね。

(安倍)
植田さんのお話の中に白井鐵造さんと美空ひばりの縁があるというのをはじめて伺いまして、ちょっとびっくりして。

(植田)
少女時代一番いじめられている頃にあたたかく手を差し伸べてくれて、よほど嬉しかったのでしょうね。僕が一緒に仕事をして、2作目にどうしてもこれをやって欲しいといわれて「やろう」と。本を書き上げて宣伝ポスターを撮るんで衣装を作って、羽根つけて、レビューみたいにして、何月何日にスタジオで撮りますからといって立ち会おうとして行ったら、「ちょっと体の具合が悪いです」って。足がちょっと悪いんでと。しょうがない、スタジオから何から照明さんから置いてあるんで、とにかく衣装だけでも撮ろうよといって撮った後、次の月くらいから急変されたんです。一度元気になられてプリンスホテルでディナーショーをされて、入院した頃お世話になった方を招待され、最後に見送りにいらしたんで「あの台本おいてありますよ」って言うと途端にハラハラと涙を流されたんです。本人はきっと覚悟されていたんでしょうね。「宝塚に恩があるのよ、白井先生には恩があるのよ」ということはよくおっしゃってました。

(安倍)
私が江利チエミと雪村いずみの話をしましたので、3人娘が全員出てきましたね。これでそろいましたけども、さっきの「マイ・フェア・レディ」の昭和38年9月1日幕が降りた時に、舞台袖で菊田さんと高島忠夫と江利チエミが3人抱き合って涙を流したということを菊田さん自身が書き残されております。
これが日本のブロードウェイ・ミュージカルの幕開けだったんだなぁということを改めて思いました。それでは話が色々広がりましたので、広がった話の中からもっともっと突っ込んで聞きたいとか関連エピソードを訊ねたいとか皆様のご希望がございましたら、しばし質問コーナーにさせて頂きたいと思います。30分位質疑応答をいたしましてから、先程予告いたしました、貴重な白井さんのフィルムを見たいと思っております。 どなたか発言したいなという方おありでしたらどうぞご遠慮なく。

(質問者1)
昭和のエンターテインメントとは少し違うかと思うんですけれども、植田先生にお聞きしたいのですが。学生でありながら白井先生から台本に朱を入れて頂いたというお話をとてもうらやましく思うんですが、知り合うきっかけというか、朱を入れて頂くようになるきっかけというのはどういう形で作られたのでしょうか。

(植田)
僕は早稲田の演劇科だったのです。芝居が好きで、そのころ日大と早稲田にしか演劇の大学がなかったので早稲田の演劇科に入ったんです。
たまたま倉橋健さんがフルブライドの留学生としてアメリカから帰っていらして、今アメリカではミュージカルというのがあるんだと、歌と踊りと芝居の三位一体にしてやる芸術だと授業で紹介されたんです。当時まだ若かったものですから、何か面白そうやな、何かわからんけど、と。若者に興味があるような言葉ですよね。
いっぺん勉強してみようかということで、倉橋先生の所に通っていろいろな資料を貸して頂いたり、翻訳して頂いたり、お話して頂いているうちに、僕は関西人ですから「あれ、これ宝塚や」って思ったんです。
そのうち我々でミュージカルを作ってみようとなって。
芥川龍之介の「かっぱ」をミュージカルにして大隈講堂でやろうということになるんですが、皆で集まってみて、やったらどこからBGMが入ってくるの?音が入ってきてそれからどこからセリフになっていくのとか、どこで音が入って踊りになっていくの?とか頭で考えてるだけで誰もわからないんです。困っていたところで、同期生の中で葦原邦子さんという宝塚の大スターを知っている人がいて、一度尋ねてみようか?と。
これ宝塚と似てるからと言ってくださったら「いいわよ、見てあげましょう」といって。まだ戦後15、6年の時代ですから。江古田のすごいアトリエで応接間が3つくらいある、一つの応接間にはグランドピアノが2つ入っていて。「ソレイユ」の一番いい時ですからね、庭も広いすごいお家で。 ここを使いなさいよと言われて、稽古場にして皆でやっていたんです。それを見ていたんでしょう、葦原さんが「あなた卒業したらどうするの?」といわれて「何も考えていません、東京で仕事がしたいです」と言ったら、「神戸にお父さん、お母さんもいるんだから関西に帰りなさい。私が白井先生紹介してあげるから」と言われたんです。見てはいましたけど、こちらは大学入ってからは「なんや宝塚なんて」ってことですよ。若いですからね。
女ばかりの所の何が面白いの?と言っていたのが、そう言われてそうかな?と。別に入ろう!とかやろうとかいう気持ちはなかったのですが、初めて白井先生の所に連れて行って頂いて、宝塚の場合は演出をしたいなら本を書かないとダメだよと。だから本を書きなさい。とにかく休みの時に帰ってきた時に書いた台本を持っていらっしゃいと言われて。その頃の神様みたいな方ですから、白井先生に本を読んでもらえるのならうれしいなと思って一生懸命一生懸命に。でも今思ったら本当にはずかしいものですが、それを何作も持って行った。そして最終的には白井先生にも「君、宝塚に来なさい」といわれたのが元々なんです。

(質問者1)
どうもありがとうございました。やはり自分から挑戦していかないとダメなんですね。よくわかりました。

(安倍)
僕もちょっと菊田さんについて言い残した事があったので、今思い浮かびましたからいくつか補足しますが、菊田さんは翻訳ミュージカル第一号「マイ・フェア・レディ」という財産を東宝に残した。自作では「放浪記」ですよね。もちろん東宝の演劇部なんて「マイ・フェア・レディ」「放浪記」で食ってるようなものだと思うのですが、それは悪いことでもなく、軽蔑することでもなく、やはり財産を残して、それが時代を越えて何度も再演されているということは本当にすばらしいことだと思います。それが伝統の継承だという風に思います。
森光子を菊田さんが見出した時も非常に偶然で、菊田さんがたまたま東京から出張されてて、呼んだハイヤーがなかなか来なくて時間があまったので、梅田コマ劇場の一番後ろで立ち見をすることになった。その時にちょうど森光子が出ていて、私は森さんから直接聞いたし、彼女の自伝にも出てくるんですが、物干し場で洗濯物をかけているシーンだったそうです。ただ竿に洗濯物をかけてるだけではさまにならないので、当時の流行歌をいくつか口ずさむというアドリブを入れていた。それを菊田さんが見て、とても間が良く歌っているっていうんで、東京に出てこいってことで森さんはチャンスを掴んだ。
当時梅コマでちょい役に出ている程度、テレビもそこそこありましたが、ラジオ全盛時代だった。そこで漫才をやっていたんですね、お笑い番組に出ていた。それがたまたま物干し場の所で歌を口ずさんでいたということがきっかけで東京に出てくることになった。本当に縁というものはそういう風にして生まれ、スターは本当に意外なところから生まれるんだなと思います。
それから来年は帝国劇場の100周年ですね。明治44年(1911年)に帝国劇場っていうのが出来たんですね。「今日は帝劇、明日は三越」そういうキャッチフレーズがそのころ流行ったことがあります。明治44年ですから、すぐに大正になっちゃいますね。それで改装されたのは1966年 昭和41年なんです。旧帝劇が出来てからちょうど来年で確かに100年。日本の近代劇を支えてきた劇場というものが100年たったということは、そのまま日本の近代演劇史を象徴するような歴史じゃないかと思うんですが、改装された帝劇で菊田さんはブロードウェイから「オリバー」という作品を呼んでいます。
映画にもなりましてヒットしましたんで、それもあって呼んだんだと思われますが、なぜ新装になった帝劇で「オリバー」を呼ぼうと思われたのか?私は良くわかるなぁと。主人公の「オリバー」といういたいけな少年の境遇と菊田さんの境遇っていうのがとっても重なり合うところがある。両親も良く知らない、子供の時から大変苦労した。多分菊田さんはブロードウェイでご覧になって自分と重ね合わせて、ぜひ日本に呼びたいなと、多くの観客にみせたいなぁと思われたに違いない。外国のカンパニーを呼ぶということはとてもお金のかかる事で大変なんですが、それをあえてされたってことは今思うといい事をされたなぁと。企画された方の心の中にあるものと作品は通じ合っているんだなぁと改めて思いました。

(植田)
菊田先生のことでちょっと一言。菊田先生が宝塚で仕事をされていた頃、僕は少しご挨拶するくらいだったのですが、ある時菊田先生のものと僕のものと二本立てで企画が決まって、その時菊田先生はハンブルクかどこかで、その土地の有名な令嬢が船員と結婚したという小さな記事を新聞で読まれて、それが「霧深きエルベのほとり」で宝塚で内重のぼるがやって。それを内重のぼるが再演することになって、それが内重のぼるのサヨナラ公演で、その前のもので何かやれっていわれて。
菊田先生の前に40分位で好きなものをやらせて頂こうと思って。越後獅子の子供が淀川の川べりで船に乗りそこなって、次の船まで待っている間に雪が降ってきて。子供たちがどうしていいか分からないということで、川の側にあったお地蔵様が突然動き出して子供たちに元気になれよと言って。最後には船に乗る時間になって越後獅子の子供たちはみんな船に乗って淀川を渡っていくんですが、どんどん雪が降っているところでお地蔵様が一人で「春風さんあの子たちを幸せにしてやってくれ」と言って、雪の中で踊るところで幕になる。
そういった40分のものを書いたんです。その頃菊田先生は東宝が忙しいから初日にもいらっしゃらなくて、一週間くらいでいらしたので、僕は楽屋で待っていたんです。菊田先生が自分のエルベが終わって出ていらしてた時に、僕の顔を見て「ちょっとついてきなさい」と言われたんです。僕は何か悪いことしたかなぁ、芝居が悪かったのかなぁと。どこに連れて行かれるんだろうと思って。その当時大劇場と歌劇団の事務所が少し離れたところにあってそこを黙って先に歩かれるんですが、僕は怒られるんだと思ってドキドキハラハラしながら事務所に着きまして、そしたら先生は理事長室におはいりになって「入ってきなさい」といわれ一緒に入って。理事長の前で「この子芝居書けますよ、大事にしてやってください」って言ってくださったんです。大先輩が何かを認めようとする努力。作家同士でお互いにほめあう。
同じ仕事をしている訳ですからね。「この男は書けますから大事に扱ってください」って。僕はまだ30歳になっていませんから。さっきの台本の白井先生と一緒ですごい心の宝石みたいで、菊田先生の思い出です。

(安倍)
今日植田さんがある大きな要因は菊田さんに引っ張り挙げられたことかもしれない、大告白を聞いてしまいました。どなたかご質問ある方どうぞ。

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