(安倍)
あの、植田さんに伺いたいんですが。もちろん植田さんにも先生がいらっしゃったと思います。植田さんがまたたくさんのスターを育てられたと思いますし、演出家の先輩のお話、植田さんを育てた先生のお話もお伺いしたいし、植田さんが育てられた大スターたちのお話も伺いたいし。両方を、ひとつ欲張ってお願いをしたいなと思います。

(植田)
やはり僕は宝塚でずっと仕事をしていましたから、宝塚の歴史の中では白井鐵造という人がやはり今の宝塚の形を創りあげた人だと思っております。

(安倍)
途中ですが、白井佳夫さんじゃありません。白井さんが出てくるけど、これから植田さんの中には別の白井さんが何度も登場すると思いますけど誤解無きように。

(植田)
昭和の初期にレビュー文化を日本に輸入して日本のレビューを創り上げたのは宝塚歌劇団です。また、それよりも前から御伽歌劇やバレエなどで活動していた歌劇団が「モン・パリ」の誕生や成功でレビュー劇団として成長発展していったのが宝塚の歴史です。それ以降、白井先生のレビュー「花詩集」「パリゼット」「ローズパリ」などが続々と誕生して、レビューの王様として白井鐵造の名は不滅なものになっていきます。僕はその白井先生に手を取って教えられました。まだ早稲田大学の学生のころに、神戸の郷里に帰るたびに、つたない原稿を読んでいただくためにおうちに伺いました。何回も何回もそれの繰り返しでした。そのたびに先生は、今から考えたら非常にお忙しいときにもかかわらず、ひとりの学生に実に丁寧に指導してくださいました。「ここは踊りにしなさい」「ここは歌にしなさい」と「宝塚の舞台は女性ばかりなのだからこうしたほうがいい」と懇切丁寧に宝塚の舞台での何が必要なのかを教えてくださった。それは僕の大切な財産です。本当に今でも先生の朱の入った原稿が残っているのですが僕の大切な宝物です。僕は現在のレビュー形式やショービジネスの世界を創り上げられたのは白井先生だと思っています。それが証拠に宝塚でもたくさんの舞台を創られましたが、それ以外に小林先生が提唱された国民劇で当時の大スターだった榎本健一さんには「浦島太郎」、古川ロッパさんには「ロッパの花詩集」また「桃太郎記」「木蘭従軍」などのオペレッタ。これが現在のミュージカルの原点です。また伝説の李香蘭を初めて日本で紹介した演出も先生ですし、美空ひばりを日劇の舞台に上げる演出も白井先生です。舞台で「あんな小娘が!」と幕内からの反対で稽古がストップしたときに、楽屋でションボリしていたひばりチャンを励まし慰められた、とひばりさんからうかがっています。「白井先生は私の恩人です」と。これくらい日本のショービジネスをリードし現在の日本に定着させた方だと尊敬しています。白井先生がいらっしゃらなければ現在のショービジネスの世界は違った形になっていたのではないでしょうか?また、ひばりチャンの映画や舞台に宝塚の卒業生を使われたり、長谷川先生をはじめとして多くの方々の舞台に卒業生が出て可愛がっていただけるのも、白井先生が蒔かれた種が実を結んで現在にまで続いているからだと思います。そんなことを、僕も先生を見習って歌舞伎では先代仁左衛門さん、尾上梅幸さん、市川猿之助さん、商業演劇では長谷川一夫さん、司葉子さん、杉良太郎さん、里見浩太郎さん、高橋英樹さん、また歌手では美空ひばりさん、山口百恵さんなどいろいろ方の舞台を演出するという、宝塚以外での他流試合を経験して実感することが多かったのです。

(安倍)
今日は植田さんにテープを持ってきていただきました。白井鐵造さんにも本当にゆかりの歌です。モン・パリを聞かせていただくという。

(植田)
はい。これは先ほどもお話ししましたように、岸田辰弥先生のヨーロッパ帰朝作品として昭和2年に宝塚で初演されました。これより以前に小林一三先生は宝塚歌劇は家族で楽しむことのできる娯楽と位置づけられました。家族が多くなればなるほどその入場料はかさむものですが、極力入場料を安くしなければならないことになります。それは客単価を落とすことで、それで経営するには少しでも大きな劇場を作らなければなりません。そのためにそれまでのような劇場ではなく、東洋一、4000人収容の大劇場が建設されました。しかし、当時の舞台事情ではあまりにもバカでか過ぎました。照明も暗く、音響もワイヤレスマイクなどない時代ですから、とにかく技術的に問題が多すぎたのです。「小林は気がおかしくなったのではないか、あんなデカイものを建ててどうするつもりだ」「劇場というよりまるで運動場ではないか」「これで小林もおしまいだな」と非難轟々ですし、観客も激減しました。そんな危機に小林先生は守りに入るのでなく、スタッフをヨーロッパ研修に派遣されました。当時はベルエポックといって、ヨーロッパ文化が爛熟していた時代です。そこで岸田辰弥先生をはじめスタッフをパリに、堀正旗先生を先生のスタッフ共にドイツに1年ものあいだ派遣されたのです。「これからは世界だ!」と経営の悪化する中で保守的になるのではなく、かえって挑戦的に行動されたのが小林先生の慧眼であり進取の精神のように感じます。もし、あのときそれがなかったら現在の宝塚は存在したでしょうか?とにかくこうして帰国後のお土産作品が日本最初のレビュー「モン・パリ」なんです。しかし、それまでの作品形態と違い、幕無し、開いたら最後まで幕間がないなんて今まで経験したことのないもの。どうしてやるのか?岸田先生の話だけで想像して手探りでやらなければならない大冒険でした。その助手に白井先生はついておられて、これも日本最初のロケットをどんなものか想像もつかなくて「あんな不安なことはなかったよ」とよくお話しになっていました。しかし、そんな雲を掴むような仕事の上に、なんと予算が1万4千円もかかることがわかったのです。当時、1万4千円といえば4年分の経費でした。これでまた大騒ぎになったのです。

(安倍)
昭和4年、1万4千円!

(植田)
そうなんです。4年間の公演経費をたった1回の公演で使うなんて、あまりのことに大反対、非難轟々。とてもじゃないができないと誰もが大反対でした。しかし、岸田先生はこれができなければ宝塚を辞めると一歩も引かれません。事態は膠着状態になりました。そんなときに小林先生の「やろう!」という決断が下ったのです。これも、もしあのとき先生の大英断がなかったら、現在の宝塚は存在しませんでした。そして公演が開始された途端に大人気となり宝塚の現在の土台を作りあげたのです。
レビューとはREVUE、REが再び、VUEが見るという意味で再び見る、すなわち年末にその1年流行った歌や事件をコントにして再び見ることから始まったものです。1年の回顧という意味です。
「モン・パリ」では、岸田先生がモデルのような男性が神戸港から宝塚の生徒たちに見送られて船出して、香港・マカオ・インドなどの寄港地を周り、最後にマルセイユに到着して、それから汽車でパリに行く道中を歌や踊りやコントで綴った旅行記を回顧する形式になっています。この汽車の踊りこそロケットの始まりだし、パリに到着して歌う歌モンパリが日本でシャンソンを初めて紹介したのです。たまたま、当時のレコードの原版が見つかりましたので、みなさまにぜひ聞いていただこうと持参しました。これは当時の奈良美也子という男役の大スターが歌っています。

―― モンパリの歌 流れる ――

(安倍)
これが宝塚がパリに取材をしたレビューの原点ですよね?

(植田)
そうです。これが男役なんです。昔は、こんな声で男役も歌っていたんだなーと思いますよね?相当高い声ですよね?

(安倍)
あの白井鐵造さんの伝記を、ちょうど白井さんと植田さんの間の世代になるのかな?、高木史朗さんが「レビューの王様」という評伝を書かれていますが、僕はあの本を読んで思うのは、白井鐵造さんを主人公にした舞台を作ったら面白いんじゃないかなと。その評伝を元にして舞台を作ったら随分豪華絢爛な舞台を出来るんじゃないかなと時々思うんですけれども。

(植田)
そうですね。高木先生もレビュー化したいとおっしゃっていました。白井先生は明治33年、浜松の奥の秋葉の火祭りで有名な秋葉で生まれました。お父さんは腕のある指物師だったんですが、立派な職人にありがちなガンコで嫌な仕事は絶対に引き受けないというような方だったらしく、家庭は経済的に苦しく、小学校の先生は成績が良いから上の学校に進学を勧められたらしいのですが、昼間は仕事をして夜は学校に行ける特典がある浜松の染色会社に勤めることになりました。白井少年は、当時は交通の便も悪く、山また山を越えて浜松に徒歩で行くことになりました。その道は九十九折になっていて、雨の中を草鞋を履いて油紙をレインコート代わりにして、そのぬかるんだ道を行李を背負ってトボトボと一人で歩いて行ったそうなんです。そして子供心にさみしくなって振り返ると、峠の所に母親がジーっと雨の中を佇んで見送ってくれたそうなんです。いつまでもいつまでも、振り返るたびに母の姿が雨と涙にかすんで見えたという実にいい話であり、新派の芝居のようなエピソードがあります。そして浜松に着いて初めて海を見たとき、その大きさや波のうねりの恐ろしさに少年として仰天したそうです。いまちょうどNHKで「龍馬伝」をやってるじゃないですか。坂本龍馬も初めて海を見たときもそうだったと思います。この海の向こうに何があるの?って感動をよく話していらっしゃいました。そして、こんな所で一生を送りたくないと心に決めたそうです。それで子供のときから得意だった歌が歌いたいと。ちょうどその頃、音楽家の高折夫妻がニューヨークから帰国して、これからは日本で歌劇団を作りたいという記事を新聞で読まれて「僕もやりたい」と手紙を出されたそうです。この高折夫妻の高折周一さんはバイオリニストで、奥さんの寿美子さんはオペラ歌手で日本人として初めてオペラ「マダム・バタフライ」のプリマドンナとして抜擢されたことで有名でした。白井先生は何度もこれを読み返し、突然いてもたってもいられなくなり自分も高折夫妻のもとで勉強して一行に加えてもらおうと、電撃にでも打たれたように決意を固めてしまったそうです。「これが私の運命を決定した新聞記事で、私の今日の運命はこれから始まった」と自伝にも書いておられます。そこから歌劇の人脈が広がり、日曜学校での歌の教え子だった岸田辰弥氏に紹介され、岸田先生の書生として先生が京都で立ち上げる「新星歌劇団」のコーラスボーイとして参加されたのが始まりです。また松旭斎天華一座に加わり、今でいうショーの劇団としてバラエティショーにも出演されたそうです。そんな過程の中で宝塚歌劇団の小林一三先生が岸田先生にオペラのショーの演出や執筆を依頼するために入団を薦められ、白井先生も宝塚に同行されたのが宝塚との最初の出会いだと伺っています。白井先生は少年の多感なころに舞台に出られて「今何をやらなければならないのか?」「観客が何を望んでいるのか?」など、書斎からの発信ではなくご自分の肌で感じた演出をなさったのが白井舞台の魅力でもあり秘密のように考えます。僕も日本舞踊で舞台を踏んでいましたので「舞台の経験が演出家には必要だ」「舞台に出るだけではダメで、舞台に出て今なにを観客が望んでいるのかお客様の反応を感じるんだよ」などと教えてくださいました。僕の舞台が他の演出家と違うとすればそんなところに秘密があるように考えます。

(安倍)
なるほど。

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