(安倍)
それでは私の番ですけども、今植田さんが色々お話になった宝塚はレビューという形式で日本中のお客さんを楽しませてくれた。片や宝塚の伝統にはレビューと同時にお芝居があって、その芝居の中に音楽を入れる。そういう音楽劇という流れがもう一本レビューの横にあったんだと思うんですけれども。
それが段々ミュージカルという形になっていったんだろうなと思います。そういう意味では日本の音楽劇、ミュージカルの基を作ったのはレビューと2本立てで音楽劇を一生懸命製作してきた宝塚ではないかなぁと思うんですが。それが今日のようなミュージカルブームといううものの原点であろうと思います。
ところで最近はブロードウェイ・ミュージカルのほとんどが日本語訳になって上演されています。とても私なんかでも見切れないくらいの数があります。ブロードウェイだけでなくて、ロンドンウエストエンド発の作品も次々上演されています。そこで今一度確かめておきたい。日本で一番最初に翻訳ミュージカルというものが、いつ誰の手で行われたかと。
これは、皆さん今日おいでの方はエンターテインメントに関心がある方ばかりですからご存知だと思いますが、作品は「マイ・フェア・レディ」でプロデュースしたのは当時東宝の専務だった菊田一夫さん。年代は昭和38年(1963年)の9月でした。
それまではいわゆる商業劇場で欧米の翻訳劇、ましてやミュージカルを上演するってことはなかったんですね。歌舞伎・新派・新国劇っていうのは、日本の芝居ばかりやってました。
西洋のカツラをかぶって西洋人のような服装をまとって、そしてジェスチャーで芝居をする。それはやや軽蔑的に「赤毛」という風に呼ばれていた。「赤毛」を一生懸命やっていたのはどこかっていうと、築地小劇場とその流れ汲む新劇団でした。ですから昭和38年に菊田さんが「マイ・フェア・レディ」をやる時に私たちは商業劇場で「赤毛」をやるのかとびっくりしたわけです。
「赤毛」という言葉もいまではあまり使われなくなりましたけど、どうして菊田さんはそういうことをやろうと思ったのか?新派・新国劇などはいずれもだんだんと時代から取り残されていって、新しいエンターテインメントを観客は求めるようになる。では新しいエンターテインメントとは何か?っていうとこれは結局西洋音楽に裏付けされているものだろうという風に菊田さんは考えられた。それは当時ラジオから、いわゆるポピュラー音楽がどんどん流れていたわけです。その種の音楽を日本語に直していろんな人たちが歌っていました。昭和20年代の半ばくらいからそういう傾向が出てきたわけですけれども。ラジオを通してアメリカのヒットソングを日本語に直訳したものが歌われる。そういうものを聞いて育った人たちがいっぱいいる。そういう若い人たちは古いお芝居じゃなくて、新感覚の芝居を求めるんじゃないかなぁという見通しの上でミュージカルというものを考えられたという訳です。以上のような話を菊田さんは盛んに口にしたり書いたりしておられました。
菊田さんは昭和30年に小林一三さんに招かれて東宝の重役になるんですけれども、これからの新しいエンターテインメントはミュージカルだという風に思われたわけです。菊田さんが残された文章を色々読んでみますと一番初めからミュージカルというつもりはなくてですね、東宝の重役になったときに東宝喜劇という名前で始められたそうです。ところが阪急東宝グループの総帥であった小林一三さんが今ミュージカルというジャンルの舞台が西洋ではやっているから、いっそその言葉を使ったほうが時代にあってるし今の言葉で言えばカッコイイっていうんですかね、東宝ミュージカルというのはどうだというふうに小林さんが提案をされて、東宝喜劇が東宝ミュージカルになったんだそうです。しかし菊田さんはご自分が書いて演出された芝居が必ずしも初期はミュージカルではなかったんでミュージカルという言葉を使われるということに内心忸怩たるものがあって、ということを当時書いておられます。ただ菊田さん自身は戦前浅草の軽喜劇でいわゆる歌入り芝居をたくさん書いておられるんで、いわゆるミュージカルの原点のような浅草の軽喜劇というものを熟知されていた。その渦中にあった作家であり演出家だったので、自然に音楽劇という構想をどこか心の中に持っておられた、それがミュージカルに発展していくのではないかなぁという風に思いました。、菊田さんについては沢山の方が書かれております。一番まとまった評伝は、菊田さんのお弟子さんの小幡欣治さが書かれたもので、特に小幡さんが書かれた評伝は菊田さんの愛人だった人に口を開かせている。宝塚出身の浦島歌女さんという人にインタビューして彼女の証言を随分書かれている。そういう貴重な部分もあります。しかし小幡さんはどちらかというとお芝居の方なのでミュージカルのことは書かれていないのは残念なことでして、いずれ菊田さんのミュージカルの部分についてはちゃんとした評伝が、僕は書かれるべきじゃないかなという風に思っています。菊田さんについて文章をいろいろ読んでおりますとたまたま演劇評論家、特に歌舞伎にお詳しい戸板康二さんが書いた文章の中に非常に面白いくだりがあったのでちょっと読んでみます。
これは昭和30年に戸板さんが白水社から出された「演劇人の横顔」という本なんですけれども、その中にこういう事を書かれているんですね。戸板さんは菊田さんが昭和8年の浅草・笑いの王国から始まる大量な作品を見てきたけれどどんな脚本にもすべてそこには菊田一夫独特の「歌」がある。もちろん主題歌という意味ではない。つまり菊田さんはミュージカルを書くつもりじゃなくても、常に音楽が隣り合わせにあるようなものを書いてきた、自然に芝居の中から歌が出てくるような作風だったと。私流ですが、菊田さんは劇作家として歌心があったという風にも解釈できるんじゃないかと思うんです。それから戸板さんは面白いことを言っているんですが、歌うという日本語、旧かなで「ウタフ」という日本語は「訴ったう」からきていると思うと。「歌う」というのは「訴ったう」すなわち「訴える」ということだとすれば、歌うということは何か?強烈に感情を表現することではないか?ミュージカルである主題を訴えようとすればおのずと歌になる。日本のミュージカルのパイオニアの菊田さんは、歌うことによって何かを訴えることを自然体で体の中に持っておられた方ではないかという気がします。菊田さんがとっても微笑ましい人だと思ったのは、ブロードウェイという文字のブロードとウェイの間に中黒すなわち「・」を入れているのを見つけたときです。ブロードウェイというのは、英語で多分二つの言葉からできている地名だなと思われたと思うのですが、そのくらい誤解をするくらい当時は東京とN・Yのブロードウェイは遠かったんだなという気がいたしました。先ほどお話しした「マイ・フェア・レディ」ですが、9月1日に幕が開きました。その前に3日間プレビューをやったそうです。特に31日は外国人の記者を呼んだそうです。日本で初めてブロードウェイのミュージカルが行われたというので外国のジャーナリズムも興味を持った。ステージを見た後に東京宝塚劇場のロビーで外国の新聞記者たちがタイプライターを打っていたそうです。当時はメールもなかったしFAXもありませんでしたから、テレックスもなかったと思います。そこでタイプしたものを郵便で送ったのかな?外国人記者まで日本のミュージカル第一号の立ち上げを目撃し興味を持ったわけです。もちろん演出は菊田一夫さん、主演「マイ・フェア・レディ」のヒロインをやったのは江利チエミ。ヒギンズ教授を高島忠夫でした。当時、新聞が伝えたことによりますと、森繁久弥がヒギンズ教授、イライザ役は雪村いずみがやることになっていたそうです。いろいろ紆余曲折があって高島忠夫と江利チエミになったと。もしも森繁と雪村がやっていたら、当時のキャストは随分違うものになっていたのではないかという気がします。菊田さんはイライザを雪村にやらせたかった。しかし雪村は当時結婚していて子供がいたので、「私は家族生活のほうが大事だから降りるわ」といって親友のチエミに譲ったという友情物語が伝えられています。森繁さんがやったら年代的にヒギンズ教授にぴったりだったと、惜しいなという気がいたします。ブロードウェイ・ロンドンのオリジナルキャストのレックス・ハリソンはこの役をやったときが50代ちょっと位、森繁さんもちょうど50歳だったそうです。森繁さんのヒギンズが見たかったなという気がします。高島忠夫と江利チエミで行われ、特にマイ・フェア・レディという役は前半は花売り娘ですが、後半はレディになる。チエミちゃんというのは雰囲気・パーソナリティー共にとても庶民的な人だったので、花売り娘は誰もが良く出来ると思ったんですが、果たしてレディになったときはどうかな?と懸念がありました。菊田さんも実際、懸念されたということを書き残しております。しかし、前半さえ良ければ成功なんだから、敢えて江利チエミに託したということも書かれています。特に前半の英語は、下町の訛りなんですけれども、倉橋健さんの翻訳ですと東京の下町言葉みたいなものになっています。大将と呼びかけているんですけれども、そのセリフが大将ではなく「テイショウ」といっている。「テイショウ、花買ってよ、花買ってよ。テイショウ、テイショウ」と言っている。今、東京下町の人でも大将をテイショウと発言する人はいなくなったと思います。それから有名な「レイン・イン・スペイン」、「スペインには雨が降る」ですね。そこではスペインには雨は主に「しろのに降る」と歌っています。しろのとは本当は広野ですね、東京弁ですと「し」と「ひ」が逆になる。そういうところは菊田さんなりの苦労があったんじゃないかという気がします。いずれにしても、今日の翻訳ミュージカルレビューというものの一番の原点は「マイ・フェア・レディ」だということをこの際我々がもういっぺん想起した方がいいのではないかなという感じがいたします。これで3人の基調講演は終わらせていただいて、ちょっとお休みを頂いて、後また皆様からもご質問を受けたりしたいと思うのですが。
特に白井さんが一番最後にとてつもない映像を持ってこられましたのでお楽しみください。
黒澤明監督がダメだしをしている、それを盗み撮りしていたカメラマンが・・。それを持って来られた。これ著作権どうなるのかな?心配なんですが・・。後でそういう特別な付録もありますので。それでちょっと菊田さんの話が出ましたんで、白井さん、「君の名は」の映画について何か一言。

(白井)
菊田さんのNHKのラジオドラマ「君の名は」が始まると、銭湯の女湯がガラガラになったという。そのくらい女性ファンにウケた。実は、この話は松竹大船撮影所の名宣伝部長が「君の名は」の映画版公開にあたって作った、神話なんですけれど。実際はそのようなことは無かったというのが通説であります。大体菊田一夫さんが、NHKのラジオドラマをやるのは、浮浪児たちを扱った「鐘の鳴る丘」からです。NHK史を調べたら、こういうことが出てきたんです。当時、アメリカ占領軍が日本を占領していた。マッカ-サーの指令が出るんです、「日本国中に浮浪児が氾濫している、日本の人々はそれに関心がない、NHKはそれについての啓蒙的ドラマをやるべきだ」と。それで出てきたんです。

(安倍)
そうですか。菊田さんは宝塚にも何本か本を書かれておられて、僕は「花のオランダ坂」が大好きな作品で、非常にドラマチックでいいお芝居だと思いますけれども。

(植田)
とにかく宝塚の舞台でいろんなものを作られてらっしゃる。そこで音楽劇・洋楽をいれてのお芝居を経験されたのではないでしょうか。

(安倍)
そうでしょうね、多分。

(植田)
菊田先生の場合は本が遅いんです。本当に遅くて遅くて、主題歌だけは出来てくるんです。内容も大体こんなこと書きたいとおっしゃることは分かるんですが、出来上がってみたら変わっているかも分からないんで、とにかく歌詞だけが出来てきて、まず作曲家が曲をつけて、あとは亡くなったレビューの演出家の鴨川清作っていうのがいたんですけれども、これが助手で付いていた。「鴨ちゃん頼むわな」といって踊りの場面は全部鴨川さんが作って本人は何もしないで、通し稽古ぐらいではじめてご覧になるようなことだったんです。始めから俺はダンス場面は得意ではないという気持ちがあったのではないでしょうか。

(安倍)
菊田さんにとっては、戦前の浅草、戦中の有楽座で、古川ロッパ、エノケンをスターにして音楽喜劇を作り、戦後は宝塚にも関係されていたから自ずとブロードウェイ・ミュージカルになっていった。

(植田)
だから、白井レビューは必ず東京からみんな見に来ていた。その中には菊田一夫もいたし菊谷栄も必ず見に来ていた。SKDも東京から見に来ていて、宝塚で初日を開けたら何ヶ月後に東京なんで、その何ヵ月後に東京に来たときには、必ず国際劇場で同じような系統なものをぶつけていくというこの競争。これは悪いんではなくてお互いに競争している。お互いに切磋琢磨したのが、やはりレビューの文化を大きくしたのだと思いますね。

(安倍)
ここでちょっと休憩を頂戴しようと思います。15分休憩を頂戴して一息入れたいと思います。

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