(安倍)
パネリストと同時に司会進行役を勤めさせていただきます安倍寧でございます。
去年の11月にこういうタイトルで、我々、昭和一桁生まれ、オールドボーイズが3人集まりまして芸能界・昭和の時のよもやま話を致しましたところ、幸いにも大変好評でございました。そして続編ということになったんですが、続編というのは、映画を見ても大体ろくなことはない。大体本編を下回るということが常識でございます。本編をより面白くするようにオールドボーイズ3人今日、いろいろとっておきの話を皆様に披露させていただきたいと思っております。白井さん、植田さんどうぞよろしく。この2人は、本当は先生といちいち言わなければならないのですが、今日は「さん付け」で呼ばせて頂きます。どうぞご了承ください。それで、まず今日はですね、スターを育てた人、スターというのは育てた人がいるからこそ、監督とか演出家とかプロデューサーとかそういう人たちが居るからこそ、スターが生まれる。この育てた人と育てられた人との関係ということにテーマを絞りまして続編を行いたいと思っておりますが、その前にちょっと前説として有馬稲子さんの話をしたいと思うんですね。というのは日本経済新聞の私の履歴書、4月は有馬稲子さんが書かれています。頷かれている方がいらっしゃるんで、お読みになっていらっしゃる方が結構いらっしゃるのではないでしょうか。私の履歴書は日経新聞の最後のページ、文化欄にもうずっと長く続いておるコラムで、毎月人が変ります。日経ですから財界人が結構多いのですが、面白い人も面白くない人も居ます。それから自分で書いていない人はつまらないですね。記者の聞き書きはつまらない。有馬稲子は非常に面白い。私は今老人ホームに入っている、が第1回でした。それで一昨日、昨日、今日、非常にショッキングなことを書いておられる。で、お二方にその感想をお伺いし、これを前説イントロダクションにさせていただきたいと思うんです。というのは、ねこちゃんが、我々ねこちゃんと言ってましたが、21歳で映画界に入ったときにある大監督と大恋愛をした。その監督は17歳年上だった。しかも、奥さんの連れ子がいた。なのに結婚してくれと結構迫られたということを書いております。それで早速テレビのワイドショーがこれに食いつきまして、こともあろうにその監督の名前を公開して写真まで紹介しておりました。日経・私の履歴書では曖昧にして大監督の名前はひとつもそれは書いておりません。それで、僕は特に今日のは非常にショックだったと思うのは、最後に実は非常にきれいな書き方をしているのですが、次のような告白です。その監督は赤ちゃんを取り巻く大人たちの大騒動をテーマにした映画を作った。キネマ旬報のその年のベスト1に輝いたその映画のポスタ-を見て、彼女はしばらく立ち尽くしてしまった。かつて間違いなく彼女の身体の中に居て、ついに祝福されることがなかった子供のことを思い出して涙が止まらなくなった。実は、その大監督の子供を宿していたという初めての告白であって、大スターがまあ時効になったからまあいいのかなという風に告白したんだろうなと思いますが、非常にショッキングな告白だったと思います。特に有馬稲子は宝塚出身なので、植田さんにもいろいろお話を伺いたいと思いますが、まず白井さんに。白井さんも毎日読んでいらっしゃるそうですが、どういったご感想をお持ちなっておられますか?

(白井)
やっぱりショックでしたね。それと有馬稲子さんはその前にも自伝を一冊出しておられましてね、その中でこのことを書いておられるんですよ。その頃はまだ監督はご存命中で、ほとんど誰だか分からないように書いておられましたね。ところが今度の日経を読みますとね、森本薫さんの戯曲「華々しき一族」、これは杉村春子さんが文学座でおやりになった芝居ですけど。それの映画版を問題の監督が作って、それが有馬さんが主演した、この監督との最初の映画なんですね。それ以後の2人の関係が、かなり具体的に書かれている。映画のことをかなり詳しい人ですとね、類推されるんですが、なのに監督の名前は出していない。それがものすごく重要だと思うんですよ。ここで名前を赤裸々に出しちゃうと、もう身も蓋もないというか、デリカシーがないというかね。その辺が有馬稲子さんのある種の良識、あるいは自分の人生の一大事で7年間もその人と付き合ったんだけど、そのことを活字で残しておきたい。だけど、誰だったかは自分からは書きません。という矜持があった気がしますね。こういうことをね、テレビのワイドショーが誰々さんだってすぐ書いちゃうのがね、困りますよね。この辺が節度が無くなっているというか。我々が暮らしている芸能世界って言うのは、そういう節度をみんな無くしちゃうとね、泥沼にズブズブはまって、誰と誰がどうした、アイツがこのことでこう言ったとか。あんなことやったなんてやり出すと、これは全く夢も希望も無くなってしまって。やっぱりね、芸術・芸能というのは夢と希望がね、特にエンターテインメントは希望っていうのが失われちゃうと、致命傷のような気がするんですよね。どうも最近のテレビ局さんはテレビの時代がへたすると終わるんじゃないかと、地上波のテレビ局というのが無くなっちゃうという危機感があるんでしょうけど。やたらワイドショーとかお笑い芸人さんを使った番組をやって、あられもない狂態を示しているって感じですね。ちょうどテレビが出てきて映画がタダのテレビに負けちゃった頃、各映画会社は臆面もなくエロをやったというのと似ている。映画が100年かかってやったことを、テレビは50年でやっているのかな、という気が非常にしますね。

(安倍)
植田さん、有馬稲子はお母さんも宝塚。本人も宝塚。しかも芸名を継いでいるんですね。お母さんの芸名をそのまま。

(植田)
そうです。二代目なんです。

(安倍)
その辺のお話をお伺いしたいですが。

(植田)
本当の親子ではないんで、養女にはいってらっしゃるんです。宝塚はもともと昔から百人一首の中から芸名を付けますので。お母さんのときから「有馬稲子」有馬山、稲のささ原そよ吹ばという百人一首からとられた名前なんです。僕は今日、有馬さんのお話を伺ってて一番感じていたのは、宝塚で50年、もっと居るかな60年!? 80いくつまでずっと宝塚の衣装部のおばさんで、衣装を着せたり作ったり全部してくれた中川菊枝っていう人がおりまして、晩年にはニッセイの文化賞まで頂いた人なんですけれども、そのおばちゃんに「あんた長い宝塚の中で誰が一番美人だった?」っていうことを聞いた事があるんです。即座に言ったのが「月丘夢路」と「有馬稲子」だと。この2人は美人だったって。生徒たちの食堂があるんですが、そこに入ってきた途端にオーラいっぱいになったって。そこは稽古場の下ですからみんな素顔で入ってくる。汗のまま、それでもきれいだった。それを一番最初に思い出しましたね。今あちらの方がおっしゃったようにスキャンダラスなことをテレビがやるっていうのが、映画もそれによって影響されたっていうお話があったんだけれども、テレビも映画に負けるな映画を追い越せ、何をやれば一番勝つんだっていう時代がテレビ界の中にあったんで、つい触ってはいけない事、みたいな事をやっている、それが未だに続いてきているし、それが危機感、これからはそれでいいのか?っていうようなことがあるのかもしれませんね。

(安倍)
芸能とゴシップというのはこれはもう不可分みたいなもので、ゴシップを追うっていうのは本当に楽しいものなんですが、やっぱりユーモアが必要だなと思います。有馬稲子の話も彼女が急性盲腸炎になって病院に入院している。大監督と恋愛している、一方で中村錦之助にプロポーズされる。彼女の入院先で錦之助と大監督が鉢合わせをしてしまうというそういうくだりもあって、白井さん、そこ面白かったですよね?

(白井)
すごいですね。これはすごい話で、今まで聞いた事のない男と女の話です。

(安倍)
大監督はレインコートを被って、病室の隅に隠れていたそうです。ちなみにキネマ旬報・第1位になったその監督の名前はもちろん申し上げませんが。
映画のタイトルは?

(白井)
「おとうと」「私は二歳」ですね。

(安倍)
「おとうと」「私は二歳」という映画の監督だそうです。

ページの先頭へ