(安倍)
お二方、どうもありがとうございました。私の番なんですけれども、先程申し上げました様に、昭和8年生まれ、同じ昭和8年生まれの岡田茉莉子さんが「女優・岡田茉莉子」という本を出されました。同じ年というよしみもありまして、岡田さんとも何度かお会いしたこともありますが、早速読みました。ご本人が全部書かれたそうです。570ページくらいあるんですよ、すごい著書を出された。流石、ご主人が知性派監督の吉田喜重さんだなと思って感心して、大変面白く読んだんです。監督一人一人とのどういう作品をどういう風に撮ったかということも克明に記録されております。読んで大変勉強になりました。岡田茉莉子さんのお父さんはご存知のように岡田時彦という無声映画時代の大スターですよね。そしてお母さんは宝塚出身でした。宝塚のかなりのスターだったんでしょう、私はその頃を知らないんですが。その宝塚のスターと時代を一世風靡した美男スターの岡田時彦との間に生まれたのが岡田茉莉子です。日本の代表的な女優でもあります。この本を読みますと、岡田茉莉子はお父さんが早く亡くなってしまう。母一人、子一人になります。それでお母さんは今で言うアルバイトをして、事務所勤めをしたり、ダンスホールでダンサーをやったりしながら茉莉子を育てたそうです。お母さんの妹も宝塚なんですよね?という風に芸能の話をしていると宝塚が本当にどこまでも付きまとうんです。というわけでお母さんは仕事が忙しいので、岡田茉莉子はお母さんの妹に面倒をみてもらう。妹が結婚する相手が山本紫朗さん。日劇あるいは東宝歌舞伎でプロデューサー・演出家として大いに活躍された方です。今日お見えの渡邊美佐さんは山本紫朗さんと切っても切れないご縁でいろいろとお仕事をされています。私が10代から20代はじめくらい、一生懸命通いましたのは、宝塚ではなくて有楽町にありました日劇でした。そこでいろいろなショーが行われていました。歌謡曲やジャズのショー、三大踊りと言われたレビュー。いろんなものが行われました。古川ロッパ、エノケンも出ました。思い出の舞台いろいろ沢山あります。その劇場の最大の腕利きのプロデューサーであり演出家であったのが山本紫朗さん。この岡田茉莉子さんの自伝にも山本紫朗さんのくだりが出てきます。「1957年昭和32年東京宝塚劇場で、東宝ミュージカルの舞台が私を容赦なく待っていた。しかし東宝ミュージカルに出る前に、毎年正月恒例のスターパレードというステージショーがありまして、そこに榎本健一さん、美空ひばりさん、宮城まり子さんその他沢山と一緒に出た。そしてこのミュージカルは叔父の山本紫朗が制作を担当していた」という叔父さんの話題が出てきます。その続きでこういう箇所があります。「この叔父の交友関係から私は音楽プロデューサーの渡邊美佐さんと親しくなり、その紹介でジャズのレッスンを受けてきた。やがて日劇のショーにも出演し渡辺晋とシックスジョーズ、原信夫とシャープスアンドフラッツ、鈴木章治とリズムエースといったバンドと共に私がジャズを歌った。それが私に許された唯一のストレス解消法だった。」ということで実は渡邊美佐さんと岡田茉莉子さん、山本紫朗さんは交友関係がおありなんだなということをこの自伝を読みまして改めて感じた次第なんです。実は岡田茉莉子と関係があるもう一人の人のことにも触れておきたい。岡田茉莉子のお母さん、宝塚時代は田鶴園子さん、そしてその妹のみほこさんという人と結婚した人が山本紫朗さんですが、その山本さんの妹にあたる人が和田精という人と結婚します。和田精さんというのは、日本に初めて音響効果というものを持ち込んだ方です。その昔、築地小劇場というのがありました。日本の新劇の発祥の地といわれます。小山内薫と土方与志が作ったものです。そこの効果係で採用されて、そして日本に舞台効果というものを持ち込み、更にそれをラジオというメディアが発達するに伴ってラジオでの音響効果の第一人者になられました。ラジオドラマの神様と言われた人です。NHK大阪にも勤められました。そして後に新日本放送、今の毎日放送に入られまして取締役をおやりになりました。という肩書きよりも"効果の神さま"と言った方がいいのが和田精さん。和田精さんの息子が週刊文春の表紙を描いているのが和田誠さんですね。その和田誠さんの奥さんがシャンソンを歌っている平野レミさん。平野さんはこの頃シャンソンよりもお料理で有名ですが。和田誠さんに「ビギン・ザ・ビギン」って本があります。これは今はなき日劇の歴史を全部書いたものです。ある時山本紫朗さんにお目にかかった時に、確かペギー葉山が紫綬褒章をもらった時のパーティーでしたが、「安倍ちゃんよー、この頃日劇もさ、みんな忘れられちゃって悲しいんだよ。この間若いのを連れてマリオンの前を歩いていて、俺ここで働いていたんだよって言ったら若い人は、おじさん、デパートでお働きだったんですか?って。」確かにデパートが2つありますけど、あそこに日劇がありました。私が若い時に見た日劇のショー、2つだけ挙げたいと思うんですが、1つは昭和25年の「ホノルル・ハリウッド・ニューヨーク」。服部良一・笠置シヅ子がブギウギを当てまして、ブギウギの本場アメリカへ行って興行して帰ってきて、凱旋公演をやりました。私、高校2年だったと思いますがよく覚えてます。服部良一さん、最近のJポップスの元祖はこの方ではないかと思います。それからもう一つは、私が社会人になってからですけれども、昭和33年2月8日、これはどういう日かと申しますと、第1回ウェスタンカーニバルの初日であります。日劇にはバルコニーがありましたが、渡邊美佐さんのお隣で一緒に拝見させて頂いた思い出があります。第1回ウェスタンカーニバルでは、ミッキーカーチス・山下敬二郎・平尾昌晃3人がロカビリー三人男というタイトルで大いに活躍いたしました。そしてトイレットペーパーが投げられた、それが舞台の興奮をより煽ったという伝説があります。和田誠さんの「ビギン・ザ・ビギン」によりますと、山本紫朗さんなんかが浅草の問屋に行ってテープをいっぱい用意して、ファンに配ったんだそうです。そのままテープを投げると芯が人にぶつかってしまうので女の子に渡すときに「芯は抜いて舞台に投げろよ」という指導をしたそうです。そんな裏話も和田さんの本には出てまいります。さっき岡田茉莉子は昭和8年生まれと言いましたけれど、念のために昭和8年生まれの私と同年輩の女優・歌い手がいかに多いかという事をご披露して私の話を終えたいと思います。ものすごく多いんですが、順不同でいきます。池内淳子11/4生まれ、扇千影5/10生まれ、岡田茉莉子1/11生まれ、草笛光子10/22生まれ、南田洋子3/1生まれ、鳳八千代4/21生まれ、若尾文子11/8生まれ、雪代敬子3/20生まれ、淡路恵子7/17生まれ、重山規子9/6生まれ、北原三枝7/23生まれ、ロミ山田8/8生まれ、ペギー葉山12/9生まれ、黒柳徹子8/9生まれ。多彩な素晴らしいスターやタレントを昭和8年は生んでいるなと思って、私は同志だと思って大いに誇りにしております。草笛光子は今、「グレースガーデン」という芝居に出てます。ブロードウェイミュージカルです。初日、見に行きました。草笛は私と目が合いますと僕の方向を指差しまして、「同い年、同い年」って言うんですけれど、そういう仲であります。それにしても植田さん、宝塚出身者多いですね。岡田茉莉子は宝塚じゃありませんが、宝塚の血を引いておりますし。扇千景、鳳八千代は宝塚。ついでにSKDは淡路恵子、雪代敬子、草笛光子。SKDは今ホテルになってしまいましたが、あそこに国際劇場という東洋一の劇場がありましてね。そこをベースにしていました。それから、日劇をベースにした日劇ダンシングチームのNDT出身が重山規子、石原裕次郎夫人・北原三枝ですね。昭和8年多士済々だということを皆さんにご報告し、話を終えたいと思います。

ページの先頭へ