(安倍)
どうもありがとうございました。実践教育養成機関ということで言えば、撮影所と並んで、やはり、宝塚歌劇団というのは無視できないと思います。最近は、映画と宝塚の関係もどんどん深まってきております。洋画ですね、とくに。「風と共に去りぬ」とか、「誰がために鐘は鳴る」とか色々あります。
小池修一郎さんが最近は、「カサブランカ」という名画を宝塚の舞台で再演されるという、びっくり仰天しております。というのは、私は「カサブランカ」が大好きな映画で、中学生の時に、新宿の新宿東宝で観まして、あの映画の中の「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」という曲はすぐに覚えましてね。たぶん、この曲も宝塚の舞台に出てくると思います。
それから、ナチの軍人がカサブランカのナイトクラブ(ハンフリー・ボガードがオーナーの)に入って来て、自由フランスとナチと対決する場面があります。そこで、自由フランスの方が「ラ・マルセイエーズ」を歌うところは、胸が迫って涙を流しました。
さっき、控え室で植田さんに、「小池さんのカサブランカには、あの場面はあるのでしょうかね?」と聞いたら、「間違いなくあります」と言うので、ぜひ私も観に行こうと思っております。
このライブの舞台ということでは、昭和の歴史で宝塚の舞台というのを無視するワケにはいかないと思います。宝塚と歌舞伎はたぶん不滅であろうというのは、私の推測であります。
その宝塚の中心的役割を長く果たしてこられた、植田さんに色々体験談を伺いたいと思います。

(植田)
植田でございます。最初に、コーディネーターの藤田さんが、明治は遠くになりにけりとおっしゃっいましたが、昭和もどんどん遠くなっています。我々の生活のなかで、「えっ?そんなことも知らないの?」ということが起こるものですから、「昭和」をちゃんと検証しておかないとダメだと思っていました。今ならこうして皆さんが健在ですから、まだ間に合うと思っていましたところ、声を掛けていただきましたので、僕でお役に立つのならと参加させていただきました。ここにいらっしゃる皆さんは昭和という時代のエンターテインメントをリードされた方ばかりです。白井さんはキネ旬の歴史を作られた方です。藤田さんはテレビの「題名のない音楽会」に30年もたずさわり、いずみたくさんなどと初期の日本のミュージカルを作ってこられた方ですし、安倍さんは四季のミュージカルを通して先覚者だし、お一人お一人でも2、3時間は十分に語る資格のあるメンバーです。「正しい未来の展望は過去の歴史の検証にある」といいます。若い方もぜひ聞いて「昭和」のエンターテインメントについて理解していただくと、これからの未来の流れが明確になると思いますから、ぜひとも聞いていただきたいと考えています。
本当にエンターテインメントというのは庶民のエネルギーだと思います。まして昭和は波瀾万丈な時代でした。しかし、歳月とともにだんだんと風化しています。平成も21年。人間なら成人式も終わる時間です。宝塚音楽学校は14歳から18歳までが受験資格なんですが、ここ2、3年前から受験生は平成生まればかり、昭和なんてどこにいったの?というというワケです。それを毎年繰り返していますから、今「昭和」を、チャンと伝えておかないと我々の「昭和」がわからなくなってしまうと危機感を感じています。こんな機会にぜひとも若い人たちに心に残していただきたいと願っています。
僕も宝塚で演出をして52年になります。そのあいだに先輩方、上から言えばこの間亡くなりました、日本で初めてシャンソンを歌った深緑夏代さん、淡島千景さん、洋楽で踊る日本舞踊を定着された天津乙女さんなどから明治、大正、あるいは戦前の宝塚の歴史を教えられました。それが僕の宝塚での仕事の原点になっています。大正3年に生まれた宝塚は、昭和2年の「モン・パリ」誕生で大ブームが生まれました。日本で初めてのレビュー、日本で初めてのシャンソンの使用などで現在の宝塚の基盤は出来ました。しかし、戦後の混乱期のあと観客の激減で危機を迎えました。宝塚というところは、その母体が阪急電鉄という電車の会社です。赤字が続く野球の阪急ブレーブスと宝塚歌劇団は、道楽息子と道楽娘と厄介がられて「どちらかを潰す」のではという噂さえ流れました。そんな危機感の中でも宝塚は前向きに内部の作家だけではなく菊田一夫、北条秀司、有吉佐和子、平岩弓枝など外部の作家を招きました。その方との人脈が生まれ、また、次はわれわれの時代になっても、我々は理屈は立派だが、体で指導してみろといわれては手も足も出ません。そんなところから長谷川一夫さんなどを招いて演出をしていただいた。それがまた外部の空気を入れる転換期になりました。そんな歴史があってこそ現在があります。そんな「昭和」を皆さまと語り合う時間になればと思いますので、どうか宜しくお願いします。

(安倍)
植田先生、宝塚は戦前から西洋の音楽を取り入れましたけど、とくにシャンソンというものを、日本に取り入れた点では、大きな功績があったでしょうね。

(植田)
その当時、小林一三さんは、宝塚を家族が楽しめるエンターテインメントとして育てたいと思っていました。そのためには入場料は高くできない。そのためには大勢のお客さんが入るような劇場がなかったらいけない。ということで、東洋一と言われた4000人の劇場を建てたんですが、昭和4、5年という頃ですから、照明の技術も音響も現在と比べたら未熟なもので、それに出ている天津乙女さんが、真っ黒けでどこだかわからないような舞台だった…というところで、お客さんも来るはずがないわけ。お客さんがどんどん落ちてきて、そこでどうするかといった時に、世界に目を向けて、白井鐵造さんとか堀正旗さんといった方がどんどん海外に行った。その時、一番文化が爛熟していたのがヨーロッパだったので、白井さんはパリにフランス、堀さんはベルリンで勉強をなさって、そこで勉強なさったことを全部持って帰ってこられたから、シャンソンもそう。

(安倍)
なるほど。私事でこんな思い出があるんですけれども、国文学者の池田弥三郎さん、演劇評論家の戸板康二さんとたまたま酒席を共にした時に、お二人とも大正生まれで、折口信夫門下ですから、国文学専門の方のはずですけれども、西洋の大好きなお二人でした。「俺たちはな、ヨーロッパに眼開かれたのは二つあるんだよ、一つは宝塚のシャンソン。もう一つは東和商事のヨーロッパ映画」ということを言われました。「この二つが俺たちのヨーロッパへの窓だったんだよな」とおっしゃって盃を酌み交わされていたのを思い出すんですが。白井さんどうでしょう、映画の輸入ということもちょっと何かに触れていただければ、戦前から日本に洋画が入ってきてどんな影響を及ぼしたのか?例えば、日本映画にも大きな影響を及ぼしていますかね?

(白井)
池波正太郎さんという人と仲良かったんですが。いろいろ付き合っていると、彼は外国映画しか見ないんですよ。聞いたことあるんです、「池波さん、あなたは時代小説作家なのに、何で日本映画を見ないんですか?」と。彼がこう言いました、「俺は時代小説を書いているけれども、それを現代の日本人に読んでもらわないといけない。だから外国映画の最先端の作品を常に見てどういうフィーリングのものが最先端なのかってことを感覚的に覚えておいて、その感覚で時代劇を書く。だから現代の人に読んで貰えるんだよ」という言い方をしましたね。なるほどね、それは池波小説のある秘密だろうと思うんですね、池波さんに最初に私が編集長時代のキネマ旬報に文章を書いて頂いた時、こういう原稿が来たんですよ。「西洋の音楽など聴いたことも無い田舎のおばあさんに、スターダストというスタンダードナンバーの曲のレコードを聴かせたと。今の音楽はどんな風だった?と聞いたら、「なんだかお星様が夜、キラキラ光っているような音楽だね」と言ったと。うまく出来過ぎているような話ではあるんだけど。池波さんが言っている事というのは、感覚は世界共通である。芸の伝承には感覚が大事だよと。それは日本の感覚も大事だけども、日本で良い物を作る為には、海外の良い物の感覚も取り入れないといけない。数日前に、「松本清張さんと映画」という番組で二時間ほど話したんだけど。その時思ったのは、清張さん40才くらいまで不遇だった人ですよね?彼は人生を何で癒してきたかっていうと、おそらく洋画をたくさん見てきたという気がしますね。あの人の文学は日本の文学の私小説の流れとか、自然主義リアリズムの流れとまったく外れている。これは外国映画から学んだ具体的なものの把握と基本にあるリアリズムみたいなものが、松本清張さんの文学の形を作ったんじゃないかという気がするんですよ。特に戦前のだんだん日本が暗くなっていく時代に数々の優れたヨーロッパ映画を日本に輸入した川喜多長政さんと川喜多かしこさんがやった、東和商事映画部の作品あたりですね、後に東和映画になるんですが、この役割っていうのは大きかった気がしますね。皆、頭の中にすり込まれているんじゃないでしょうか?あの時代の。

(安倍)
そうでしょうね、まさにそれを戸板さん池田さんはおっしゃったんだと思いますね、東和商事と宝塚という。
「巴里祭」「パリの屋根の下」それからウィーンからの映画も随分と。

(白井)
「たそがれの維納(ウィーン)」とか。「ブルグ劇場」とか。

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