一般財団法人 渡辺音楽文化フォーラム

渡辺晋賞 第20回 記念企画

これから日本エンターテインメント担う
若きプロデューサーたちへ

渡辺晋賞受賞プロデューサーからのアドバイス

WATANABE FOUNDATION
            FOR MUSIC & CULTURE

これから日本のエンターテインメントを担う
  若きプロデューサーたちへ 第4回 秋元康

第4回 秋元康


第4回 秋元康

2025.12.18

Interview: 田中久勝/Photo: 山本佳代子/Design: 中村麻衣
秋元康

音楽・芸能の発展に貢献し大衆に希望を与えた人を顕彰する『渡辺晋賞』。今年第20回を迎えたことを記念して、これまでの受賞者に『これから日本のエンターテインメントを担う若きプロデューサーたちへ』と題して、次代を担う若き才能たちへの応援と後押しの一助とするべくインタビュー企画がスタート。稀代のプロデューサーの目に現在のエンターテインメントシーンはどう映っているのか、そして次代を牽引するプロデューサー、さらにエンタメシーンを目指す若い人達に向けてメッセージを届ける。

第4回目は秋元康氏。言わずと知れた天才仕掛け人は、その鋭い嗅覚で数々のヒットを飛ばし、エンターテインメントシーンを牽引してきた。稀代のプロデューサーに聞く、過去と現在、そしてそこから見えてくる未来とは?エンタメシーンだけではなく、全てのビジネスパーソンが目から鱗の言葉が次々と出てくる、貴重なロングインタビューになった。

「好奇心」だけを原動力に、動き続けた50年

——秋元さんが受賞された『第5回渡辺晋賞』の授賞式は、2010年3月に行なわれました。この時のスピーチで秋元さんは「自分では、次々と新しい事をやってきたつもりでしたが、振り返ってみると、実は渡辺晋さんという天才プロデューサーが、すでに道を作ってくださっていたことに気付きます。晋さんは芸能界、あるいはテレビ界・エンターテイメントの世界で、いち早く“街”作りを行い、このような多メディアの時代にも通用する道を整備し、インフラを整えていたのではないでしょうか」とおっしゃっていました。

秋元 よく覚えています。渡辺晋さんとは数回しかお会いできなかったのですが、バンドマン、ジャズマンとして始められ、アメリカの文化を日本に普及させるとともに、いわば今の日本のエンターテインメントの礎を築いた方だと思います。まだ何もルールもなく、みんな見様見真似でやっていた中で、プロダクションを設立し、そこでいち早く映像の権利や音楽の権利、ライツを整備しようとしました。さらに渡辺プロダクションだけではなく、業界全体を良くしなければいけないと、芸能ビジネスの近代化を目指し、音楽事業者協会(音事協)などの権利団体やシステム作りにも心を砕いた方です。とても大きな偉業だし、そんなスケールに自分は遠く及ばないと感じています。

——渡辺晋さんは、常に時代を先取りする文化を切り拓いてきたプロデューサーですが、秋元さんのキャリアもまさに時代を切り拓き続けてきた歴史だと思います。今年で活動50周年を迎えますね。

秋元 そうなんです、高校2年の夏にたまたま聴いたラジオがきっかけで、台本を書いてニッポン放送に勝手に送って、それがきっかけで放送作家としてスタートして今年でちょうど50年なんです。

秋元康

——何年か前に秋元さんがONE OK ROCKのTAKAさんとYouTubeで対談している動画を観たのですが、その時秋元さんが「17歳の頃からやっていることや思いつくこと、考え方があまり変わっていない気がする」とおっしゃっていたのが印象的でした。

秋元 あの頃の自分のまま、止まっているような気がします。この仕事がなんで50年も続いたんだろうと思うと、やっぱり好奇心だと思います。好奇心が全ての原動力で、最初はラジオの台本を書くことから始まって、テレビの構成作家になって、ステージや舞台の構成や演出、あるいは作詞や訳詞をしたり、分野はその時々に変わっていますが、あんまり自分の中で意図してこういうふうにしようという感覚はなかったんです。

——よく聞かれると思いますが、秋元さんの肩書は「作詞家」でいいのでしょうか?

秋元 それがわかりやすいかなと思っています。テレビでもラジオ番組でもそうですが、基本は共同作業で、そうすると「あの番組やってました」って言っても、その中の一人でしかないわけですよね。でも作詞は明確に自分がその詞を書いたという事実があるので、わかりやすいと思い、ある時期から肩書は「作詞家」と言っています。

「認知」と「人気」の違いに焦点をあて、小さいが確かな熱気を大きな炎に

——「渡辺晋賞」の受賞理由にもなっていますが、秋元さんの50年のキャリアの中で、やはり日本だけではなく海外のファンも熱狂させたAKB48のプロデュースは、後世に語り継がれていく偉業だと思います。そのAKB48も今年20周年です。秋葉原に専用劇場を作り、会いに行けるアイドルというコンセプトは当時斬新でした。

秋元 アイドルをプロデュースするにも、渡辺晋さんたち先人が作った道があって、でも同じ道を進んでもそれにかなうわけがない。同じ山の頂を目指すにしても、脇道や違う道はないのかを考えました。テレビ、ラジオ番組にしても、CMでもドラマでも、自分が何かを作る時、その手法の基本はゲリラです。王道ではないところから勝負しないと勝てないから。僕に力があれば正統派アイドルを作って、歌番組でこれでもかっていうくらい露出して、ということもできたかもしれない。でもそれは無理でした。だから全く違うことをやらざるを得なかった。逆に言えばそれが面白いと思いました。

——それでまず秋葉原に劇場を作って、会いに行けるアイドルというコンセプトでスタートしたんですね。

秋元 テレビ番組の代わりに劇場を作って、そこで毎日公演をすれば、話題になって人気が出るんじゃないかと。もしかしたらそれは渡辺晋さんたちが作ったグループサウンズブームの時の聖地・喫茶ACB(アシベ)とか、そういうところからの発想なのかもしれません。

——2007年に刊行されたAKB48の戦略が書かれた書籍『48現象』(ワニブックス刊)の中で、メンバーのことはもちろん、ファンの発信にも大きなウェイトを置き、「ヲタ」と呼ばれるコアファンのブログの紹介やインタビューにかなりページを割いていました。

秋元 僕はずっとテレビという最大公約数のメディアの仕事をしてきたので、まずは視聴率が指標になります。例えば当時『ザ・ベストテン』(TBS)は40%を超えていたけれど、誰が観ているのかは見えてこない。一方で僕が高校生ぐらいのときに、つかこうへいさんや東京キッドブラザーズ、東京乾電池のような劇団の芝居を観たくて、そのチケットを獲ろうと徹夜でプレイガイドに並んだときはすごい行列で、当日の劇場は立ち見や通路に座布団を敷いて観ているお客さんで溢れ、熱気が見えていました。それ以来思っているのは、やっぱり「認知」と「人気」は違うということ。テレビではたくさんの人に観られるけどそれは認知であって、わざわざライヴに行こうとか、その人のCDやレコード、写真集を買おうってなかなかならないと思う。そうではなくて、太陽光線を虫眼鏡で絞り込むように焦点に当て続け、火をつけないと煙も立たない。AKB48はテレビという大きなメディアによる認知ではなくて、250人しか入らない小さな劇場の中の熱気の方が広がっていくと思いました。

——小さな熱狂が色々な人を巻き込んで大きくなっていく。

秋元 小さな劇場で見る芝居に熱気をすごく感じたので、AKB48 も最初は劇団のような感じにしたかったんです。劇場の場所も大切です。最初から渋谷や青山のオシャレな街では探していなくて、たまたま秋葉原のドン・キホーテのビルの8階が空いていて、秋葉原でやるならやっぱりアイドルの方がいいんじゃないかということで。AKB48は元々は「秋葉原48」という名称でした。

秋元康

——去年12月、劇場もリニューアルをして、今年は20周年で神7や海外選抜が参加する 66枚目のシングル『Oh my pumpkin!』が発売され(8月3日)、大きな話題になりました。

秋元 僕はあまり10周年、20周年という周年にこだわっていません。これはAKB48にも坂道グループにも言っていることですが、結局AKB村の人たちだけが盛り上がっているお祭りでは、それ以上は広がっていかないと。だからAKB村に興味がないし、ライヴに行ったこともないけど、面白そうだからちょっとのぞいてみようって、どれだけ思ってもらえるかが勝負だと思います。それがAKB48の場合は総選挙だったり、楽曲でいうと「恋するフォーチュンクッキー」や「365日の紙飛行機」「ヘビーローテーション」のように、「AKBのことは嫌いだけど」とか「AKBなんちゃらのことは全然知らないけど」という方々にでもこの曲は好きと言っていただける曲を作れるかどうかだと思います。

——例えば1~2曲しか知らないけどそれが強烈なインパクトがあるので、ライヴを観に行こうという人も多いですよね。

秋元 そうです。例えば社会的現象になっているBTSのような世界的なアーティストのライヴを観に行きたくて、全曲は知らないけど行ってみると、素晴らしいダンスと歌、現場のエネルギーに引き込まれ、熱狂する。まず最初に興味を持っていただけるかいただけないかが勝負なので、入口や引力になる仕掛けを徹底的に考えます。