一般財団法人 渡辺音楽文化フォーラム

渡辺晋賞 第20回 記念企画

これから日本エンターテインメント担う
若きプロデューサーたちへ

渡辺晋賞受賞プロデューサーからのアドバイス

WATANABE FOUNDATION
            FOR MUSIC & CULTURE

これから日本のエンターテインメントを担う
  若きプロデューサーたちへ 第3回 本多一夫

第3回 本多一夫


第3回 本多一夫

2025.10.30

Interview: 田中久勝/Photo: 山本佳代子/Design: 中村麻衣
本多一夫

音楽・芸能の発展に貢献し大衆に希望を与えた人を顕彰する『渡辺晋賞』。今年第20回を迎えたことを記念して、これまでの受賞者に『これから日本のエンターテインメントを担う若きプロデューサーたちへ』と題して、次代を担う若き才能たちへの応援と後押しの一助とするべくインタビュー企画がスタート。稀代のプロデューサーの目に現在のエンターテインメントシーンはどう映っているのか、そして次代を牽引するプロデューサー、さらにエンタメシーンを目指す若い人達に向けてメッセージを届ける。

連載第3回目は『第3回渡辺晋賞』(2008年)を受賞した本多劇場、ザ・スズナリ、駅前劇場など、下北沢で複数の劇場を運営する本多劇場グループのオーナーであり、俳優の本多一夫氏。下北沢を演劇の街として確立し、演劇を志す若者の環境を支援してきたことなどが評価されての受賞となった。御年91歳の本多氏に当時の事を振り返ってもらいながら、演劇シーンの変遷を語ってもらった。インタビューでは長男で“本多イズム”を受け継ぎ、現在9つの本多劇場グループ総支配人である本多愼一郎氏にも同席にしてもらい、一夫氏の演劇、劇場、そして下北沢という街への想いをご家族の視点から聞かせてもらった。本多劇場グループは、時代を超えて無数のドラマと人々の熱い思いを受け止めてきた“生きた劇場”。この1000坪の演劇地帯は、いまも舞台に立ちたい人たちが絶えず集う希望の場所。舞台の力と人の可能性、地域の絆を信じる本多親子の情熱が、下北沢の街と日本の演劇界にこれからも新たな物語を生みだしていくことを感じさせてくれた。

“下北沢“ の街がもらった渡辺晋賞

——本多さんは2008年に「渡辺晋賞」を受賞されましたが、授賞式のことは覚えていらっしゃいますか?

本多 もちろん覚えています。もう17年前になるんですね。確かあの時は永六輔さんや俳優の加藤健一さん、前回受賞者のスタジオジブリの鈴木敏夫さんが会場に来てくださり。メッセージをいただきました。本当に嬉しかったです。

——受賞の一報を聞いた時は?

本多 もうびっくりのひと言でした。僕は若い頃、新東宝で役者をやっていましたが、当時の役者にとって渡辺プロダクションというのは芸能界の最高峰というイメージでした。その創立者で、エンタテインメント世界の”枠組”と時代を作った、偉大な渡辺晋さんの名前を冠した賞をいただけるなんてありがたかったです。

本多一夫

――受賞理由は“継続と挑戦を併せ持ったプロデュース性”でした。

本多 役者をやめた後に下北沢に劇場を作って、それを評価していただいて本当に光栄でした。演劇をやるというのは、みんなの力があってこそ。だからこの賞は私一人でなく、長年一緒にやってきた仲間、下北沢という街、そしてお客さんにいただいた賞だと思いました。ずっと現場にいたのでああいう形で「評価」していただくのは何だか照れくさかった。でも、この仕事をやってきてよかったな、何か“残る”ことをやったんだなという気持ちにもなりました。

――本多さんは授賞式では「70歳を過ぎたとき、また役者もいいかなと思い、2年前から開き直って役者もやっております。役者はやっぱり面白いものですよ。何が一番面白いかって、役者だと思っております」とコメントしています。当時72歳でしたが今も舞台に立たれているんですか?

本多 今も年間2~3本は出ています。でもセリフが覚えられないから特別ゲストで(笑)。特にここ3~4年は長いセリフがなかなか覚えられないので、短いセリフの役です。舞台に立つことが楽しみなので、続けています。若い人と一緒に舞台に立つとやっぱり刺激を受けます。「その間の取り方、面白いな」ってね(笑)。緊張もするし、でもその緊張があるから面白いし、毎回芝居が違う。観客と一瞬一瞬を共有するあの感覚は、やめられないです。

本多一夫

本多愼一郎 父は役者モードに入ると全然違う顔になります。劇場のスタッフとしても一緒に仕事しますが、舞台袖で観ていると、やっぱり"芝居人"なんだなと感じます。

本多 役者は人に観られて演じているということが体に染み込んでいるから、一回舞台に立ったらやめられないんじゃないですかね。

――愼一郎さんも元々役者をやっていたんですよね?

本多愼一郎 そうです。劇団青年座研究所に入り、桐朋学園短期大学で演劇を学びました。

本多 役者としては私のほうがうまいと思う(笑)。私が「本多劇場の息子が役者なんてやってていいのか。色々とやることがあるだろう。裏方をやれ」と言いました。裏方としては最高です。劇場のメンテナンスも全部やってくれる。私と違ってとにかく真面目。

――本多さんは生涯現役ですね。

本多 そもそも私は、東京に出てきた時は役者志望でした。1955年に新東宝のニューフェイスに受かって、渋谷や新宿からも近いし、当時撮影所が祖師谷大蔵にあったので小田急線がいいと思い下北沢に住み始めました。でも新東宝があっという間につぶれてしまって(笑)。芝居は続けたかったけど、食べていくには仕事もしなければいけないし、知り合いの定食屋のおかみさんに「バーでもやったら?」と言われ始めてみたら、これが大当たり(笑)。当時の下北沢は赤提灯があるくらいで、バーなんてなかった。そのバーに新東宝の同期の女優が来てくれて、それが評判になったんです(笑)。だけど心の奥ではずっと小さくても自分たちの〝板〞(劇場)が欲しいと思っていました。地元・札幌で通っていた演劇研究所時代の恩師の口癖でした。