主催事業

2014(平成26)年度
セミナー・パネルディスカッション
「エンターテインメント・ビジネスを築いた男 渡辺晋 〜その先見性と人間性を解く〜」

概 要
毎年Music Mattersというミュージック・コンベンションが開催されているが、昨年は5月にシンガポールにおいて“Music Matters 2014”が開催された。このコンベンションの目玉として、登場したユニバーサルのCEOであるマックス・ホール氏の講演が注目された。氏は、日本の音楽業界が直面している危機について講演し、「日本の業界は、サブスクリプションサービスを大切に育てなければならない。デジタルとフィジカルを融合させたチャートをいち早く確立させなければならない。」と述べ、「戦後360度ビジネスをいち早く確立させ、日本の音楽産業を世界二位に育てた“渡辺晋のスピリット”を業界人が再び持たなければならない。」と説いた。
財団としてこの講演を機に、渡辺晋の行った360度ビジネスや先行性などが、長らく低迷を続けている音楽業界に向けて、何らかのメッセージにならないかと検討し“パネルディスカッション”を企画した。
当時、渡辺晋より直接指示を受けた方や一緒に仕事をされた方、後に取材をされた方々から証言的に実感を語ってもらい、それぞれの話の中から、その先見性や人間性などを分析した。
アーティストやタレントの地位を向上させ、ビジネスとして確立するための渡辺晋の信念や、常に先を見て「新しいことをやろう。誰もやっていないことをやろう。」と言う口癖を周囲に鼓舞しながら、実際にそれまでに無かったシステムを生み出したこと、人の想いを汲み取りながら粘り強く関わり、多くの人を魅了し影響を与えたことなどが語られ、約1時間30分にわたるパネルディスカッションが行われた。当日は、エンターテインメント業界に携わる方々など、200名を超える参加があり好評を博した。
開催日
平成27年6月30日(火)
場 所
マウントレーニアホール渋谷
開催主体
一般社団法人日本音楽出版社協会、一般財団法人渡辺音楽文化フォーラム

  • 左から、新井正敏氏、平尾昌晃氏、野地秩嘉氏、阿木武史氏、菊地哲榮氏

  • 渡邊美佐理事長
    開催に先立ち、当財団の渡邊美佐理事長より、ご来賓の皆様への挨拶及び今セミナーの主旨の説明が行われました。

  • 桑波田景信会長
    (社)音楽出版社協会桑波田景信会長より、“協会としても、渡辺晋さんの先見性を引き継ぎたい”とのご挨拶を頂きました。

モデレーター

    新井正敏氏
    2015年4月NHK-BS1で放送された「BS1スペシャル 時代をプロデュースした者たち」、
    第3回シリーズ「芸能プロデューサー 渡邊晋」をディレクターとして制作された。
    制作にあたり、渡辺晋に関係の深かった多くの方たちへの徹底取材を実施され、渡辺晋を深く理解されたお一人である。

パネラー

  • 平尾昌晃氏(作曲家、歌手)
    昭和33年、キングレコード「リトル・ダーリン」で歌手デビュー後、渡辺プロが手掛けた『ウエスタンカーニバル』『ザ・ヒットパレード』へ出演、作曲家として、布施明、小柳ルミ子などへの曲提供多数。
    日本のすごいところは、終戦(昭和20年)で何もかもなくなったのに、すぐ翌年21年に「リンゴの唄」、22年にジャズ、24年に西部劇、26年にハワイアン、28年〜30年ロックンロール、ロカビリーなど次々と世の中を動かした。この流れを晋社長は解っていたのだと思う。だから日雇いだったマネージャーを給料制にしたり、大卒を採用したり、まったく今までと違った手法をとったので、当時外から見ていてうらやましかった。ポップスもうまく日本人に受け入れられるように、日本語と英語を半分半分にした、始めて聞いた人は日本の音楽かと思うくらいだった。

    晋社長は演歌からポップス、ジャズと何でもよく知っていた。『ヒットパレード』を自社制作し、『シャボン玉ホリデー』も制作したが、何といっても大きいのは、昭和37年に音楽出版社を最初に立ち上げたことだ。私は音楽著作権のことなど何も知らなかった時代。だから歌手の頃より作家になってからの方が、晋社長のすごさが身にしみて解った。
    古賀政男先生や吉田正先生にも尊敬されていたし、作家を認めてくれるというところがすでに昭和30年代からあった。
    音楽生活は長いけれど、今になって晋社長の有り難さが解る。JASRACの歴史も長いが、何も知らなかったし、作家には何もできないところがある。

    晋社長は音楽界のプロデューサーの第一号、すべての皆さんが渡辺晋さんを見習って、後を継いでいるように思う。当時は、プロデューサー、ディレクター、マネージャー、作家が毎日のようにディスカッションし、ひとつの楽曲を作り上げ、マンツーマンだった。
    今のようにFAXが1枚ポンと来て、詞が届き作曲する。何か作り上げる熱が無くなっているように感じる。レコーディングにしても、音程やリズムをすべて直してしまうので、完璧なものは出来るが、聞く人の心に響かない。だから昭和の歌は根強いのではないだろうか。
    音楽は“楽しい音”だから生きている。このことを一番良く解り、実践したのが渡辺晋社長だったと思っている。
  • 野地秩嘉氏(ノンフィクション作家)
    「昭和のスター王国を築いた男 渡辺晋物語」(マガジンハウス刊)を執筆したノンフィクション作家。
    芸能界で新しいことをやった渡辺晋さんという人は、マーケットをちゃんと見ていた。
    農村で働いていた若い人が東京に出て、仕事を見つけ、現金収入を得る。
    このティーンズというマーケットを発掘した。勿論、給料制、自社制作番組、テレビもすごいが、ティーンズにマーケットを絞ったすごさ。ホンダやマガジンハウスなど当時伸びた企業は、皆そういったマーケットに目を付けていた。
    ティーンズに目を付けた渡辺晋さんがやった新しいことは、既存のものに何かを付け加えたのではない。自分が持っているものをやらず、今あるものを犠牲にしてでも、新しいものを生み出す、斬新なものだった。ザ・ピーナッツが大人向けの歌謡曲の歌詞を単にポップスに変えて歌ったという単純なことではなく、全く新しいことをやった。

    給料制を導入した頃から、芸能・興行をビジネスとして展開しようとはっきり自覚したと思う。周知を集めること。とにかく人を集め、いろんな意見を集めて、一番良い意見は勿論、一番悪い意見もちゃんと聞く。仕事にすごく手間をかけた。本当にビジネスにしたかったからではないだろうか。芸能人は今のような社会的地位が無かったから、「ちゃんとした会社にする!」という信念を待っていたのではないだろうか。
    その意味でも、経済人と積極的に付き合うようになった。堤清二さんが言っていた。
    取材で堤清二さんにお話を伺えたが、堤さんは新潮社か朝日新聞の取材にしか応じない、詩人で文化功労者、普通のマスコミは叩いていじめ返す人。渡辺晋さんとはものすごく親交があったので取材に応じてもらった。「野地君、渡辺晋さんは日本人だった。」と語り、侍とはニュアンスが違う日本人。とても新しいことが好きで、新しいことを知らないことが嫌だという人だったという。
    なら日本人の特性とは何か、調べてみた。戦前の1922年、アインシュタインがノ―ベル賞を取った。日本に来る途中の船内で“相対性理論”で受賞した。当時、世界でそれを解っている人は15人しかいなかったので、ヨーロッパ講演でも行く人はいなかった。日本に来た時は、1回6時間の講演で8回行い、京大講堂に14,000名が集まった。それでアインシュタインは日本が大好きになったという。また、GHQのマッカーサーが昼食を食べに毎日12時に第一生命ビルを出るのを一目見ようと、全国から黒山の人だかりが出来たという。日本人の一番の特徴は、“知らないものを知りたい”という好奇心。
    渡辺晋さんは本当にいろいろ知りたかった人だった。知らないということに対してではなく、知らない自分が許せなかった人なんじゃないかというのが、最近の私の推論。
  • 阿木武史氏(潟mースプロダクション代表取締役社長/ 潟Iーケープロダクション代表取締役社長)
    昭和39年、渡辺プロダクションに入社。大卒3期生。クレージーキャッツ、田辺靖雄、森進一などのマネージメントを担当。
    社長はいつもソフトな感じ。自然で偉ぶらない。人を従えるとか強く指示するというより、考えさせる、理解するまで待ってくれる。そういう人。
    滅多に怒らない、にこやかで優しい。理屈もあれこれ言わない。これ以上考えようがないという時などは、ポロッとヒントを出してくれる。良い時は「頑張れ、それで進めろ。」というが、良くない時は「それで本当にいいのか?」と言われた。
    自分がタレントともめた時には、「正論は意味がない。相手がわかるようにどうしたらいいか。どうしても成し遂げたいと思ったらそれを考えないと駄目だ。」とよく教わった。

    ある売り出したタレントが、「田舎から家族を呼びたい。」ということで、新人だから勘違いをして他の事務所と契約をしてしまったことがある。
    そんな最中、地方公演からの帰りに、五反田の逓信病院に入院していた晋社長のお見舞いに行きたいと思った。そのタレントにも「一緒に行こう。」と誘ったが、彼は「晋社長に怒られるから。」と尻込みし、「病室の外で待っている。」と言う。私は、「どうせ最後には挨拶するのだから、今でも同じだ。」と説得し、連れて行った。部屋に入り、「彼も一緒なんですけど。」と言うと、「そうか、入れ。」と言われた。彼は震えて謝っていた。すると晋社長は「田舎から家族を呼びたい気持ちは解る。若いしお金もほしいだろう。悪く思わなくて良い。しかし歌うというのは良いなあ。人の前で一生懸命歌って感動させるのが一番良い。そういう歌を歌え、もっと売れるよ。」と逆に励まされたのだった。怒られるとばかり思っていたところ励まされたタレントは、帰り道に「社長はすごいですね。」と感極まっていた。そして数ヵ月後、そのタレントは他の事務所との契約を解消し、渡辺プロに戻ってきた。私も晋社長が辞めていくタレントに何も言わず、励まし、アドバイスしたことには心底驚き、晋社長のスケールの大きさをしみじみ感じた出来事だった。

    晋社長にはいろいろ教わった。「若いうちは何でもやれ。」と言われていた。あれだけ教わったのに、しかも良い環境があったのに何をしていたのかという思いがある。言われたことが、今でもずっと残っていてそれを活かせない自分のもどかしさ、未熟さを感じる。
  • 菊地哲榮氏( 潟nンズオン・エンタテインメント代表取締役社長/早稲田大学応援部稲門会 会長)
    昭和43年、渡辺プロダクションに入社。ザ・タイガース、沢田研二、木の実ナナ、天地真理のマネージメントを担当。
    渡辺プロダクションは、一流の音楽芸能大学。僕は、“渡辺プロ卒業生”。
    テレビ局、ラジオ局、作家、広告代理店など皆さん一流だった。普通じゃ会えない人ばかりで最高の環境だった。

    まず、晋社長が早稲田大学の応援歌を昭和53年に作曲したことから話したい。作詞は元東京都知事の青島幸男氏である。六大学野球の試合で使われる。
    9イニングあるので、9回応援歌を使うが、7イニング目は校歌と決まっている。
    次に第一応援歌である「紺碧の空」が2イニング使用され、残りは6曲となるが、その中に選ばれている。37年間学生が選んできた実力で選ばれた曲、学生の気持ちを掴んだ曲だと思う。お聞きいただきたい。
    <<『早稲田健児』会場に流れる。>>
    この曲を歌うと大量得点が入る、縁起の良い曲という思いがある。

    興業入場税撤廃に動いたことをご存知でしょうか。当時はチケット代の11分の1(約9%)を自動的に取られていて、税務署でハンコを押し、何枚分とお金を支払っていた。その撤廃に向け働きかけて、撤廃に導いたのが40年前のこと。

    昭和46年当時、視聴率40%のお化け番組だった『時間ですよ』をきっかけに天地真理が「水色の恋」でデビューした。翌年、社長から「天地真理でテレビ番組を作るから。」と話があり、「人形劇でやりたい。」と言われた。「何故人形劇なのですか。」と聞くと、「人形は、マーチャンダイジングに繋がる。」と言われたが、その時はあまりピンとこなかった。今のように、世の中がマーチャンダイジングに関心を持つ時代ではなかった。『真理ちゃん自転車』がブリジストンから発売され、飛ぶように売れ「これからはグッズの時代だ。」と言われたことが忘れられない。 そして、番組内容はすべて任せてくれた。元東宝の金原プロデューサーとディレクター探しをしたが、人形劇なので見当もつかない。当時ピンポンパン体操が大人気番組だったので、フジテレビの社員の河合義隆さんに会い、御願いをした。美術セットもフジテレビの妹尾河童さんに頼んだ。放送はTBSで、木曜19:00〜19:30。そして制作はフジテレビ。今でも考えられない構図だが、40年前の出来事である。制作室がフジテレビに設けられた。晋社長からどこかでストップがかかるのか、と思っていたが、ストップはかからず、晋社長もニコニコ笑いながら会議に参加した。
    晋社長のどでかい太っ腹を感じた。

    全国の公演に関しても改革した。当時は、アーティストが自らツアーを組むことはなく、興業主からの要請の度に地方公演などを行っていたが、それを変えたのも晋社長。中央プロダクションが主体的に全国の興業のネットワークに「この期間でツアーコンサートをやりたい。」と言って、ツアースケジュールを組んで行くのは、当時まったく新しいことだった。
    晋社長には物質的なことだけでなく、クリエイティブなことを教わった。
    「人がやったことのないことを考えろ。」と。

  • 会場の様子@

  • 会場の様子A

↑ページの先頭へ戻る