(安倍)
このシンポジウムは、昭和一ケタの人間が、昭和芸能史を紹介するというのが趣旨です。
白井さん、昭和7年、そして、植田さんは昭和8年、私も昭和8年でございます。
まずは、我々3人で基調講演みたいなことをさせて頂きたいと思います。
1番バッターは、白井さんにお願いしたいと思います。やはり、昭和の芸能の一番大きな柱は、映画です。映画全盛であり、かつ最大の娯楽でありました。そういう意味で、白井さんからご発言を頂きたいと思います。

(白井)
日本の映画は、まず京都で歌舞伎劇の引き写しから始まるんです。これが土台です。日本の映画会社の撮影所っていうのは、京都で時代劇を作る、東京で新派劇の引き写しの現代劇を作るという形が定着していく。その中でも僕がとくにおもしろいと思うのが、松竹大船調ホームドラマっていうものです。ある意味、日本の映画全体の核になるのだと、私は思っております。松竹は最初、東京の蒲田に撮影所がありました。松竹蒲田時代ですね。この頃はまだ、新派の色が濃かったんですね。ところがそれが今度は、大船の撮影所に移るあたりから、大船調の現代劇というのが大きな力になっていきます。それはどういうものかといいますと、アメリカのサイレント時代にブルーバード映画という、一種のローカルの舞台を背景にする家庭劇があったんですね。これを城戸四郎という、蒲田時代から大船にかけての松竹の撮影所長が取り入れて、独特のホームドラマができたんだといいます。
とくに島津保次郎という、松竹・蒲田から大船にかけての名監督が、松竹大船調ホームドラマの基本を作った。それはどういうものかといいますと、こういうことを言っています。城戸四郎さんが、「松竹の映画は、政治を描こうが、経済を描こうが、社会問題を描こうが、何をやってもいい。」「ただし、それはニッポンの典型的な家庭の茶の間における、家族の会話の範囲内において」であると、こういう規定をしているんですね。これは非常におもしろい規定だと思います。要するに松竹の映画は、「政治がこうだ!とか、経済がこうだ!とか、今の社会は良くない」とか、そういうことをあからさまに言ってはいけない。そうではなくて、どこにでもある典型的な家庭の茶の間で家族が、「お父さん、この頃景気が悪いわね」「そうだよな。魚が高くなったな」とか、そういう話をしなさい。こういうことを言っているんです。その典型的な映画を作ったのが、島津保次郎という監督ですね。島津監督はこういうことを言っているんですよ。「俺にセットをひとつくれ。四畳半の。そこに丸いテーブルをひとつ置いて、お酒と酒の肴を並べてくれ。そして、女2人と男1人を座らせてくれ。俺はその3人が台詞をひと言も言わなくても、お酒を飲んで誰かが誰かにお酒をついで、誰かが肴を食べて、また次に酒を飲むという、それだけを通じて、これだけのことを表現してみせる。一人の男と一人の女は夫婦である。もう一人の女は、亭主とデキている。だけど、女房はそのことにまだ気がついていない…。これだけのことを3分間の時間をくれれば、お互いの眼差しの交し合いとお酒の飲み方、肴の食べ方だけでやってみせる。こういうことを言ったんですね。これが、松竹大船調映画の真髄なんです。この島津保次郎という人の門下からは、色んな人が出ています。豊田四郎、吉村公三郎、木下恵介、中村登…、色んな人が出ているのですが、その流れがおもしろい形で、日本の各撮影所に散っていくということがあるんですね。例えば、豊田四郎は松竹映画を出て、やがて東宝撮影所に迎えられる。そしたら、「夫婦善哉」なんか撮りますよ。あれ観て思いませんか?天下国家のことなんて、ひと言も言っていない。まったくダメな男と甲斐性のある仲居をやっている女が、腐れ縁で結ばれて、色々あって失敗ばっかり男がするんだけど、それでも離れられなくて、最後、雪が降ってくる中で「おばはん頼みまっせ」と、二人が添っているところで終わってしまうという。それだけの話なんだけれども。観ているうちに、「そうだな、あの時代の日本って、閉塞状態であったんだな」とか。あるいは、やがてやってくる戦争前の人間達の閉塞状態の闇。そういうものが描かれていると思うんですよ。 その大船撮影所の大監督の木下恵介さんっていう人は、優れた映画をたくさん作るんですけど。大船撮影所っていうのはね、小津組とか、木下恵介組とか、みんな専属スタッフがつくワケですよ。大船の街の食堂や喫茶店や飲み屋から、「あれは木下組の食堂」とか、「あれは吉村公三郎組の飲み屋」とかね。
新人の助監督が、木下組なのに別の組の飲み屋に行ったりすると、店全体から冷たい目で見られるんです。いたたまれなかったという話がある。
社会のあらゆることを、庶民の茶の間における、家族の会話において描けという映画の作り方というのはそのへんからきてもいるんですね。映画を作る人たち自体が、いわば家族的な結びつきをもっていた。
吉村公三郎とういう監督が、「わが生涯のかゞやける日」という映画を撮って、その試写会があった時、試写が終わって、木下恵介組の人達と社内を歩いていた木下恵介さんが、後ろを作った吉村公三郎さんが自分の組を従えて歩いているのを意識して、ふと歩くのをやめて、「ギラギラした嫌な映画ね」と言ったというんです。途端に吉村公三郎監督の頬っぺたがピクリとケイレンした、という話があります。そういう撮影所だったんですね。のちに、そういうのに反逆して、大島渚なんて人が、松竹大船撮影所から出るんですね。ある時、おもしろいことがありました。大島と僕は仲が良いもんですからね、大島渚・小山明子結婚30周年記念パーティーっていうのがあったんです。
その時、僕も行きましたよ。大島がまずマイクを取って、「私の師匠を紹介します。私は学生運動をやっていて、大船撮影所に入ったものですから、煙たがって誰も使ってくれなかった。しかし、大庭秀雄監督はいつも私を呼んでくれました。大庭先生、どうぞ」。「君の名は」の監督ですよ、大庭さんっていう人は。これがまたすごい人でね、壇上に上がって言いましたね。「大島君が小山君と結婚するという時、私は言ってやりました。作る映画はヌーベルバーグいいけれども、家庭は大船調でいきたまえ」。事実、その通りになってしまったんですけど。本当に大庭さんっていうのは、おもしろい人で、大庭さんは慶応大学映画研究会の出なんですよ。「慶応の映研って、どういう風だったんですか?」と質問したところ、「当時ね、大スターの話をよくしましたよ」「グレタ・ガルボなんかの話をしましたか?」と聞くと、「しました。ある時、私が5、6人の仲間と集まってね、誰かがグレタ・ガルボのオシッコなら僕は飲む、って言ったんです。そうしたら、5、6人いた部員もみな、僕も飲む、僕も飲む」って。それくらいグレタ・ガルボっていうのは、ガルボ神聖帝国と言われたぐらい、サイレント時代の世界中の人を圧倒した魅力のある人だったというのもあるんですけど。
そういう映画を愛する人同士に通じるバカらしさ。あるいは同志的感覚。ある意味では遊び心、それがあるから、松竹大船調映画はおもしろいものができた。その流れが、東宝にいった。松竹大船撮影所に出入りしていた、明治製菓の宣伝係というのがいたんですよ。藤本真澄っていう後の東宝の大プロデューサーですよ。当時の、大船映画をよく見ると、明治キャラメルのさりげない宣伝がよく出ているんですよ。さりげなく。これは彼がタイアップしたもので。やがて、藤本真澄は東宝撮影所に行って、制作部を統括するエグゼクティブプロデューサーになる。たまたま島津保次郎が大船撮影所をクビになって、東宝に引き抜かれてきた。その時、それをサポートして、東宝という会社の中に、松竹大船調のいい部分を残そうとしたのが、藤本真澄さんがやったサラリーマン映画なんですね。「三等重役」から、このあいだ亡くなった森繁さんの「社長シリーズ」に繋がるものですよね。そういう風に、松竹大船撮影所っていうことを語り、島津保次郎を語ることが、日本映画全体を語ることに繋がってくるというあたりが、私が短い最初の10分間の中で、日本映画とは何だったのか?とくに、昭和の時代の日本映画とは何だったのか?ということを語る、前置きとさせてもらいました。

(安倍)
白井さん、今の芸能界と比較して、映画全盛期は撮影所というのがあって、撮影所というものが、芸能界のひとつの核という重要な役割を果たしていましたよね。いったい芸能界の中で、撮影所というのはどういう役割を果たしたんでしょうかね?

(白井)
そうですね。いい意味での徒弟制度で、それは映画についての論理をメモに取らせるんじゃなくて、技術を盗んで覚えろ、これですね。大庭秀雄さんが言っていましたね、「一流大学出の大島渚が入ってから、助監督はダメになりました。背広を着て、理屈ばかり言っている、監督の側に立っている職業だと思っていて。あれから大船の助監督はダメになりました」と。「理論派はダメで、職人育成が大事だ」と。

(安倍)
脚本家、監督も育っていた。役者もそうですよね。ニューフェイスで採って、撮影所で鍛えられる。それで、しかも監督は素晴らしいみんな大芸術家であって、黒澤さん、小津さん、そういう人たちによって育てられたワケですよね。だから教育機関というような。

(白井)
そうですね。撮影所は映画人総ての実践教育機関ですね。で、もうひとつ、松竹大船撮影所はやがて、テレビの隆盛によって、映画全体も斜陽化して、ダメになっていくんです。木下恵介という代表的な監督が大船を辞める。どこへ行ったのか?TBSと組んで、木下プロダクションというのを作るワケですよ。木下恵介劇場ってね、TBSの新しいビルは、半分以上は木下プロが作ってあげたんだという話があるぐらい。
だから、テレビはホームドラマが十八番でしょ。それは松竹大船調の流れなんですね。
橋田壽賀子って人はどういう人ですか。松竹大船撮影所・脚本養成所出身です。脚本部でメロドラマをたくさん書いていた。田向正健っていう人はどうですか?あれは松竹の助監督でしたね。それから、山田太一っていうのは、松竹大船撮影所における、木下恵介の最後の弟子の助監督ですよ。倉本聰っていうのは松竹にいたことはないんだけど、小津安二郎監督を尊敬している人ですね。
ってことを考えると、松竹大船調っていうのは、東宝に行ってサラリーマン映画になり、テレビに行ってホームドラマを形成してね。昭和の時代の芸の伝承っていうのは、横断的なんですね。

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